記事のポイント
- 「走れメロス」のツッコミどころとは?
- 矛盾の背景にある作者太宰治の裏話
- 作品の魅力と本当に伝えたい教訓とは
「メロスは激怒した。」
このあまりにも有名な書き出しで始まる太宰治の名作『走れメロス』。中学校の国語の教科書で読み、その友情と正義感に感動した記憶がある方も多いでしょう。
しかし、大人になってから読み返してみると、「あれ? ここなんかおかしくない?」「メロス、さすがにそれはどうなの?」と首をかしげたくなるシーンが多々あることに気づきます。
ネット上でも「走れメロス おかしい」「ツッコミどころ」といったキーワードで検索されることが増えており、かつての名作は今、そのシュールな矛盾点を含めて再評価(?)されているのです。
この記事では、『走れメロス』に潜む3大ツッコミどころを徹底検証し、なぜそんな矛盾が生まれたのか、物語の背景にある作者・太宰治の衝撃的な実話までを深掘りします。これを読めば、ただの「いい話」だと思っていたメロスの印象が180度変わるかもしれません。
おかしい!大人になって気づく『走れメロス』の3大ツッコミどころ

改めて物語を細部まで追っていくと、メロスの行動には「英雄」らしからぬ計画性のなさや、物理的な矛盾が見え隠れします。ここでは代表的な「おかしい」ポイントを3つ紹介します。
そもそも走っていない?「歩けメロス」説の検証
タイトルは『走れメロス』ですが、検証すればするほど「実はほとんど歩いているのではないか?」という疑惑が浮上します。これはネット上の考察班だけでなく、中学生の理科の授業などでも計算されることがある有名な矛盾点です。
作中の記述をヒントに、メロスの移動速度を計算してみましょう。
- 距離: 村からシラクサの街までは「十里(約39km)」と書かれています。往復で約78kmです。
- 往路: メロスは朝早く村を出発し、街に着いたのは「悠々」とした時間帯。39kmを普通に歩けば8〜10時間程度。特に急いでいる描写もないため、ここは徒歩で問題ありません。
- 復路(問題のシーン): 妹の結婚式を終え、刻限ギリギリで戻るシーンです。彼は「薄明のころ(夜明け)」に目覚めて出発し、処刑の刻限である「日没」ギリギリに到着しています。
当時のシチリア島の季節や緯度を考慮し、日の出から日没までを約12時間〜14時間と仮定します。 39kmの道のりを12時間かけて移動した場合、平均時速は約3.25km。
不動産広告の「徒歩所要時間」が時速4.8km(分速80m)基準であることを考えると、メロスの速度は「かなりゆっくりした牛歩」レベルです。
もちろん、途中で川が氾濫して橋が流されていたり、山賊と戦ったり、疲れ果てて眠りこけたりしているため、移動できないロス・タイムはありました。しかし、ラストシーンで「死力を振り絞って走る」描写があるものの、全体を通してみれば「大半は歩いていた(なんなら後半まで寝ていた)」というのが現実的なラインなのです。
「走れメロス」ではなく「小走れメロス」、あるいは「間に合ったメロス」くらいのタイトルが妥当だったのかもしれません。
王城への侵入が雑すぎる&即逮捕の謎
物語の冒頭、メロスは王の暴虐を知り激怒します。ここまでは良いのですが、その直後の行動があまりにも短絡的です。
メロスは単純な男であった。買い物を背負ったままで、のそのそ王城に入って行った。たちまち巡邏の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来た。
ここがおかしいポイントです。
- 「のそのそ」入る: 暗殺を企てているのに、隠れる様子もありません。セキュリティ意識が皆無です。
- 懐に短剣: 誰が見ても凶器です。「買い物を背負ったまま」という生活感あふれる姿の中に、なぜか短剣を忍ばせている。これで「何もする気はなかった」と言い逃れするのは不可能です。
現代の感覚で言えば、武器を持って国会議事堂や皇居に正面から入ろうとするようなもの。「テロリストとして即逮捕されて当然」であり、むしろその場ですぐに処刑されなかっただけ王様は慈悲深いのではないか、という意見さえあります。
「単純な男」という一言で片付けられていますが、あまりの無計画さに「メロス、本当に大丈夫か?」と心配にならざるを得ません。
親友セリヌンティウスの扱いが酷すぎる
最大のツッコミどころであり、同時に物語の核となるのが、親友セリヌンティウスの存在です。
メロスは処刑を待ってもらうため、「身代わり」を置くことを提案します。そこで白羽の矢が立ったのが、街に住む石工の友人、セリヌンティウスです。
- メロス: 「私には無二の友人がいる。彼を人質に置いていくから、3日だけ待ってくれ」
- 王様: 「逃げたら友人を殺すぞ?」
- メロス: 「構わん」
この間、セリヌンティウス本人の了承を得る描写は一切ありません。 深夜にいきなり王城に呼び出され、「お前、俺の身代わりになってくれ。俺が戻らなかったら死ぬけど」と言われるセリヌンティウスの気持ちを想像すると、恐怖でしかありません。
しかもメロスは、復路で一度「もうどうでもいいや」と諦めて地面に寝転がっています。 **「ああ、王は利口だ。私を死刑にするつもりで待っているのだ。間に合わなくて当然だ」**などと独りごちて、友人の命がかかっているのにふて寝を決め込むのです。
結果的に戻ってきたから良かったものの、もしメロスがそのまま寝過ごしていたら、セリヌンティウスはただのとばっちりで処刑されていたことになります。 ラストシーンで、メロスはセリヌンティウスに「私を殴れ」と言いますが、一発殴るくらいでは割に合わないほどの迷惑をかけていると言えるでしょう。
なぜこんな矛盾が?物語の背景にある「作者の衝撃的な実話」
ここまで「おかしい」点を挙げてきましたが、なぜ太宰治ほどの文豪が、このようなツッコミどころ満載の展開を描いたのでしょうか?
単なるプロットの甘さではありません。実は、この『走れメロス』の裏側には、作者自身の「走らなかった」衝撃的な実話(熱海事件)が隠されているのです。
これを知ると、メロスの矛盾した行動が、急にリアルな「人間味」を帯びて見えてきます。
太宰治は走らなかった? 元ネタとなった「熱海事件」
『走れメロス』が発表されたのは1940年ですが、その数年前に太宰治はとんでもない事件を起こしています。ファンの間では有名な「熱海事件」です。
当時、借金まみれだった太宰は、熱海の宿に滞在して豪遊していました。しかし、宿代が払えなくなり、帰れなくなってしまいます。 困った太宰は、友人の作家・檀一雄(だん かずお)を熱海に呼び寄せました。檀一雄は太宰を心配して駆けつけますが、太宰に金はありません。
そこで太宰はこう言います。 「東京の井伏鱒二(太宰の師匠)先生にお金を借りてくる。すぐに戻るから、君はここで待っていてくれ」
まさに『走れメロス』の構図そのものです。 人質(宿の借金のカタ)として友人を残し、太宰は東京へ向かいました。
しかし。 太宰は、いつまで経っても戻ってきませんでした。
数日が過ぎ、しびれを切らした(あるいは宿屋にせっつかれた)檀一雄は、宿の人と一緒に東京へ太宰を探しに行きます。 井伏鱒二の家に行くと、そこには驚きの光景がありました。
太宰は井伏先生とのんきに将棋を指していたのです。
激怒した檀一雄が「何をしているんだ! なぜすぐ戻らない!」と詰め寄ると、太宰は悪びれる様子もなく、ボソッとこう言ったと伝えられています。
「待つ身が辛いかね。待たせる身も辛いのだ。」
……いかがでしょうか。 このエピソードを知った上で『走れメロス』を読むと、印象がガラリと変わりませんか?
作中でメロスが「諦めて寝てしまう」シーンや、自分を正当化するような独白が多いのは、太宰治自身が「待たせる辛さ(から逃げ出した弱さ)」を誰よりも知っていたからだと推測できます。
つまり、『走れメロス』は、英雄の物語であると同時に、「現実では友人の元へ走れなかった太宰治が、物語の中だけでも走りたかった(友人を救いたかった)」という、懺悔と願望の物語とも読み取れるのです。
原作『人質』との違いに見る太宰の意図
さらに深掘りすると、太宰はこの作品を書くにあたり、ドイツの詩人シラーの『人質(Die Bürgschaft)』という詩を原作にしています。 大まかなストーリーは同じですが、太宰版には決定的なアレンジが加えられています。
それは、「心理描写の複雑さ」です。
原作の主人公は比較的淡々と約束を果たしますが、太宰の描くメロスは、文句を言い、疲れ、諦め、そしてまた立ち上がります。この「揺れ動く心」の描写こそが、太宰治という作家の真骨頂であり、自身の体験(熱海事件)を昇華させた部分なのです。
メロスの行動が「おかしい」と感じるのは、彼が完璧なヒーローではなく、太宰治という「ダメ人間」の分身だからこそ。そう考えると、あの不自然なまでの「諦めの早さ」や「言い訳」も、人間臭いリアリティとして腑に落ちてくるのではないでしょうか。
完璧なヒーローではない「人間臭さ」こそが魅力
もしメロスが、アメコミヒーローのように強靭な肉体を持ち、一切の迷いなく走り続け、余裕でゴールしていたらどうでしょうか? おそらく、これほど長く読み継がれる作品にはならなかったはずです。
途中で「寝る」ことの重要性
多くの読者がツッコミを入れる「復路で諦めてふて寝するシーン」。実はこここそが、この物語のハイライトです。
「ああ、もう、どうでもいい。」 肢体の筋肉はゆるみ、とろとろと眠る。
一度は死ぬ気で走ったものの、疲労と絶望に襲われ、親友の命がかかっているにもかかわらず、メロスはすべてを投げ出してしまいます。これは英雄としては失格ですが、人間としてはあまりにもリアルです。
私たちは誰しも、高い目標を掲げながらも、「今日は疲れたから明日でいいや」「もう無理かもしれない」と挫折しそうになる瞬間があります。 太宰治は、自身の弱さ(借金、薬物中毒、自殺未遂など)と常に向き合っていた作家です。だからこそ、「正義の味方」の心の中にさえ巣食う「どうでもいい」という甘えや弱さを、痛いほど鮮明に描くことができたのです。
メロスが再び走り出すのは、清水を飲み、身体的な回復と共に精神が蘇ってからです。 「一度は完全に心が折れた人間が、義務感や恐怖ではなく、自らの意志でもう一度立ち上がる」 このプロセスが描かれているからこそ、後半の疾走(という名の牛歩かもしれませんが)に、読者は心を打たれるのです。
タイトル「走れ」は誰に向けた言葉なのか?
ここで改めて、タイトル『走れメロス』について考えてみましょう。 「走れ」は命令形です。これは一体、誰が誰に向けて言っているのでしょうか?
作者からメロスへの命令? 読者からの応援? 一つの有力な考察として、これは「メロス自身が、くじけそうな自分自身に向けて叫んでいる言葉」であるという説があります。
作中、メロスは何度も自分を叱咤します。 「動け、私の脚」「私は信頼されている」「間に合う、間に合わぬは問題ではない」。
彼は、走りたくて走っているわけではありません。体は痛いし、死ぬのは怖いし、裏切って逃げたい誘惑とも戦っています。 その葛藤の中で、弱い自分をねじ伏せるように「(甘えるな、止まるな、)走れ! メロス!」と命令し続けているのです。
そう考えると、このタイトルは単なる動作の説明ではなく、「己の弱さとの戦い」そのものを表していると言えます。
ラストの「全裸」と赤面が伝える本当の教訓
物語のクライマックス、メロスは刑場に飛び込み、セリヌンティウスとの約束を果たします。 ここで繰り広げられる「私を殴れ」の応酬は、友情の美しさとして描かれますが、その直後にシュールなオチが待っています。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着てたまえ。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのです。」 勇者は、ひどく赤面した。
感動のフィナーレに、なぜ唐突に「全裸(マントなし)」という情報をねじ込んだのでしょうか? 「急いでいたから服が脱げた」という物理的な理由だけではありません。ここには象徴的な意味が込められていると考察できます。
「嘘偽りのない姿」の象徴
衣服は、社会的な地位や建前、プライドを象徴します。 メロスは道中、山賊に襲われて身ぐるみを剥がれかけ、川を渡り、ボロボロになって走りました。これは、「王への反逆心」や「カッコいい自分」という鎧が剥がれ落ち、ただの「友を想う一人の人間」になったことを表しています。 生まれたままの姿(裸)でぶつかり合うからこそ、真の信頼(セリヌンティウスとの抱擁)が成立したのです。
王ディオニスの心を変えたもの
人間不信の塊だった王様は、この様子を見て改心し、「仲間に入れてくれ」と言い出します。 王を変えたのは、メロスが約束を守ったという事実だけではありません。
ボロボロの全裸で、恥も外聞もなく泣きながら友人と殴り合う。 その「なりふり構わない必死さ」と「計算のない愚直さ」を目の当たりにして、王の凍りついた心が溶けたのです。
「おかしい」と笑ってしまうような必死な姿こそが、時に人の心を動かす。 ラストの赤面は、メロスが英雄から「ただの照れ屋な若者」に戻った瞬間であり、読者に「カッコ悪くてもいいから、信じるもののために必死になれ」というメッセージを伝えているのではないでしょうか。
まとめ:「おかしい」からこそ愛される名作
『走れメロス』を大人になって読み返すと、確かにツッコミどころは満載です。
- 移動速度は遅いし、
- 計画性はゼロだし、
- 作者自身は走らなかった。
しかし、それらの矛盾を含めて、この作品は「人間の弱さと強さ」のすべてを肯定しています。
完璧ではない私たちが、それでも誰かを信じたり、自分の弱さに打ち勝ったりしようとする時、メロスのあの泥臭い姿が背中を押してくれます。 「ツッコミどころがある」ということは、それだけ「人間味がある」ということ。
もしあなたが今、何かに挫折しそうで「もうどうでもいい」と寝転がりたくなった時は、ぜひこの「おかしな名作」を思い出してみてください。 きっと、心の中で「走れ(まだやれるぞ)!」という声が聞こえてくるはずです。
